お父さんに「私の事愛してますか」と聞けますか?
こんちこれまたずんずんです。
先日コーチングなるものをシンガポールで受けまして、その体験をべらべら人に話していたら「素晴らしい話だよ!ブログに書くべきだよ!」と言われ、
おやおやオーディエンスが待ってるなら致し方ねぇ。
というわけでこのブログに書くに至ったわけです←
今日のブログは二倍増しだよ!
————-―———
さてはて、ではそのコーチングとはなんなのかというと、
コーチと呼ばれる人が相談者の問題を聞き、その問題の本質がどこにあるのか本人が自覚するまで質問を繰り広げ適切な行動に導く助けをする、これがコーチングです。
もうさっぱりよくわかりませんが、実は私は日本でもコーチングを受けておりまして、日本のコーチングはリーダーシップ養成や組織の中の人間関係の構築に焦点が当てています。
つまり組織の中のリーダーになるための行動や話し方などを教わるわけです。
なので私の友人がコーチングを以前受けたと言っていたので、
このビジネスマンにとって弱肉強食であるシンガポールでのコーチング…こいつは凄そうだわい…(ごくり)
と生来のマゾ心が動き、教えてもらい受けるに至ったわけです。
シンガポールのコーチング、アメリカが源流なのですが、
もう全然日本で受けてたのと全然違いまして、
マジでつらかった
私はすっかり忘れてましたが、
徴兵終えたにーちゃんたちと受けるコーチングとか、はっきりって
マジで吐くほどつらかった
わけです。
さて、なにがつらかったわけか?というわけでここからがコーチングで私が何をやったかの話になるわけです。長くてごめんよ!
————-―———–
上記のように日本のコーチングはビジネスにおけるリーダーシップと組織の人間関係構築に利用するわけですが、私が受けたコーチングは個人の目標達成に焦点が当てたのです。
人間だれしも「成し遂げたいこと」があります。
または「何をしたいかわからない」場合があります。
はたまた日常で「嫌なのに続けていること」がたくさんあります。
なぜ目標が達成できないのか?人によってはやろうとすると無気力感に襲われる場合もあります。
またなぜ嫌なことなのに続けてしまうのか?
それ人それぞれ、思考の癖というものがあって、
似たような事象に遭遇すると同じように考え、同じように行動してしまうのです。
大げさな例をあげるなら、例えばあなたが小さい頃、学校の裏路地で突然変質者に殴られたとします。
そこであなたの恐怖を覚えます。その体験は記憶となります。そしてその記憶はトラウマになります。トラウマからあなたは20歳こえても30歳こえても「学校の裏路地は恐ろしいところだからいっちゃいけない」と考え、そしてそのように行動するようになります。
つまり、体験があり(学校の裏路地で殴られた)→記憶になり→トラウマになり(学校の裏路地は恐ろしい)→行動になる(学校の裏路地は恐ろしいところなので行かない)わけです。
たとえ、あなたが十分に大人になって変質者を締め殺すほどの巨漢になっても裏路地には近寄らなくなるわけです。
では、この流れをどうやって止められるか?
このトラウマから行動の間にある「思考の癖」を見つけ、
正しい行動へと促すのがコーチングだったわけです。
ここである程度のメンヘラの人ならば、それ、認知行動療法じゃん?と思う方もいらっしゃると思うのですが、実際カウンセラーの方によってはコーチングを認知行動療法の一環としてに位置付けている方もいるわけです。セラピーは過去に焦点をあて、コーチングは未来に焦点を当ててるわけですが、ここら辺の解釈は専門家の方に任せたいと思います。
————-―-―————–―-―–
さてはて、私の今までの行動、特に自分が望まないのにやってしまう行動の元となる「思考の癖」を探すためには、まずトラウマを探すことからはじめないといけません。
トラウマとかね。困りますよ。
私の人生なんて、トラウマのびっくり箱みたいなものですから。
10、20と私のトラウマについてリストアップして、それをコーチの人と語りあっていくわけです。
つらい、これが本当につらい。
ここで、ちょっと私の家庭の話をしないといけません。私の実家は郊外の一軒家、そこで父、母、兄、私の四人で暮らしておりました。私の父は典型的な日本人男子であり家事はまったくやらず育児もノータッチ、小さいころ機嫌のいい時は遊んでくれましたが兄と私がある程度大きくなるとまったく家庭問題について興味を示さずいつもテレビを見ており、気に入らないことがあると怒鳴りつけ、夕飯を投げ捨て最終的には母を蹴り飛ばして追い出してしまいました。母は母でそんなしおらしい人間かというとそう言うわけでもなく、夫についての不満を常に垂れ流し「私のようになっちゃいけない」と言い続け、私の事を「兄に比べてこの子は本当に頭が悪い」と教師との三者面談で1時間ぐらい詰め続け、私が就職してからは「金が無い金がない」と電話をかけてくる恐怖の人種でした。そして兄はIQ130ある高学歴のアスペルガーという…もうここまでで自分の人生の設定がお腹一杯だよ!!!
まあそんな感じで、私は家を出て何年もの間、父と話さず会うこともしませんでした。
母とも兄とも疎遠です。
もうぶっちゃけ、私にとって
家族と直面するより、本を出版して海外で大企業で働く方が、
楽勝
でありました。
そんな中、私にも問題がありました。
私はオフィスで女上司がとても怖いのです。
いつも、この女上司は挨拶しても無視するようなタイプの人間でして彼女の機嫌をうかがって、びくびくびくびく。怒られないか、彼女の機嫌を損なわないか、びくびくびくびく…びくびくしてるからうまく話せない、うまく話せないとまた人前で怒鳴られて怒られる…こんな悪循環の毎日でへとへとで、できるかぎりマネージャーから逃げるように彼女を無視するように過ごしていました。
この話をコーチにしたわけです。
このコーチ、ベトナム人のレズビアンなのですが、もうこの設定だけで私はおなかいっぱいです。
私は週一回カフェで彼女に会い、コーチングを受けていたわけです。
シンガポールはいつも暑く、オープンテラスのカフェに私たちはいました。
背の低い彼女は、アイスラテを飲みながら私に聞きました。
「あなたの家庭で『権威』をもっていたのはいったい誰?」
権威?権威というと、母…ではなくていつも家庭の重要なことを決めていたのは父でした。なので私は「父だ」と答えました。私の答えを受けてコーチは続けました。
「あなたは『権威』であるマネージャーが怖い。ということはあなたは父親も怖い。
権威に受け入れられないとあなたは逃げるし無視をする」
ひい!ここまで聞いて私はないはずのちんちんが縮み上がる思いでした。正しくは子宮が縮み上がる思いです。
そしてコーチは言いました。
「一番初めに父親に拒絶されたのはいつだ」
え?
一番初め?
そんなの覚えているはずがありません。
一番はじめ、一番はじめ…
ちょっとありすぎて…
わからない…わからないよ…と続ける私ですが、一つ思い出すことがありました。
それは6歳ぐらいの時でした。
私は母と一緒におにぎりを作っていました。それまでご飯は熱くて私はおにぎりを作ることはできませんでした。ですがこの時、母がご飯を冷やしてくれてたのでしょうか。私はおにぎりを握ることができました。母も褒めてくれて私は得意の絶頂です。これをお父さんに見せてお父さんに食べさせてあげよう。きっとお父さんも褒めてくれるはずだ。父が帰ってくるのを私はわくわくとしながら待っていました。
そして父が会社から帰ってきました。私は一目散に父の元に駆け寄りおにぎりを見せました。
きっと父は褒めてくれる!そう思っていました。
すると父は突然怒鳴りだしました。
「来年から小学校なのにこんなに甘やかしてどうする!!」
父は母に対して怒鳴り出したのです。私は父が褒めてくれると思ったのにさっぱりわけがわからず泣き出しました…。
この話をコーチにしました。
コーチは「それでそのおにぎりはどうしたの?」と聞きました。
え?そんなこと覚えているわけがありません。
たぶん、捨てたと思います。
と私は答えました。
コーチは「誰が捨てたの?誰が捨てたかで意味あいが違ってくる」と言いました。
私は思い返しました。そうだ、父が食べてくれなかったので、これはもういらないものだと思って、自分で捨てたのでした。
これを伝えるとコーチは言いました。
「あなたはおにぎりをプレゼントとしてお父さんにあげようとした。でもお父さんは受け取ってくれなかった。だからあなたは捨てた。プレゼントには何を込める?あなたの気持ち、つまり愛を込める。愛を込めたものが受取ってもらえなかった。つまり愛が受け入れられなかった時、あなたはその愛を自分で捨ててしまう」
ここまで言われて私は泣きそうです。そうです、私はずっと父から逃げてきました。私が何かやりたいことをいうと父はいつも否定して怒鳴りつけて私の自尊心を傷つけてきました。私が本を出版したときは父親は「本のここを直せリスト」をメールで送ってきました。シンガポールに来ることも父親には伝えませんでした。シンガポールに行ったことを知った父親からのメールは「その年じゃ仕事も見つからないでしょう」と言った具合でした。父は私の事などまったく認めていない、その事実からいつも逃げ出してきました。
コーチは続けます。
「あなたの中は空っぽで、小さい時に受け入れられなかった愛の受け入れ先を探して、小さいころ欲しかったものよりももっともっと大きいものを欲しがっている。お父さんが愛を受け取ってくれなかったからお父さんは自分のことを愛していないと思っていいる。だから父親と同じ権威を見るとあなたはまた逃げ出す。このループから逃げ出すにはどうしたらいいか?
お父さんに『私の事を愛してますか』と電話で聞きなさい」
ふぇ!?
それを言われた途端、私は号泣し始めました。
オープンテラスの席で人がたくさん歩いているというのに、私は、
「そんな事、できません」
と言いながら泣き出したのです。
ちなみに私は人前でなくようなタイプではありません。
どちらかというと感情の起伏が平坦な方です。
これは同じような父親問題を抱えている人ならわかってくれると思うのですが、まったく家庭問題のない人にとってはなぜ泣くところかさっぱりわからないと思います。
それは私にとってとても恐ろしいことでした。
父に自分のことを愛しているか聞く?
そんなことを聞いても答えてくれるわけがない。
そしてもしも、その答えが恐ろしいものだったら?
私は泣きながらできませんを繰り返していたのですが、ある程度泣いたところで、
これじゃあ日本国の大和撫子の風上にも置けない…
となぜか、私は父親に電話することを決めたのでした…。
————-―———
家に帰り私は電話をすることを決めました。
と言っても突然電話して「お父さん、私の事愛してる?」などと言っても
親父も困惑です。
なので説明するための文脈が必要になります。
なぜ私がこんなことを聞くのか、聞くまでの経緯を説明しなければいけません。
父親はもう退職して家でごろごろしてるのですぐに電話にでました。
私はことの経緯を説明しました。
「お父さんは色々してくれたことを理解している、でも、今でも自分に自信がもてない。だから今日は聞きたいことがあって電話をしたの。お父さんは私の事を今でも愛していますか?」
父親は言葉に詰まりました。すると彼は電話越しで
「お前が小さい時家出した時はお父さんが警察に電話して探してやった。学費も出してやった。就職の時も・・・」
と俺がやってあげたことを話だしたのです。
私は聞きながら、
あー死にてぇ
と思いました。小さい頃から「誰が金出してやってると思ってるんだ!」と言われながら育ったものですので、父親の~してやった話にはうんざりなのです。
うんざりしながら私は父の話を聞いていました。これでは私の「愛していますか」という問いに対する答えは一生聞くことが出来ません。
はっ!
そこで私の灰色の脳細胞が煌めきました。
日本に宣教師が来たとき、日本には「愛」という言葉は一般的ではありませんでした。なので日本人の庶民にとって「神の愛」というものは理解できない概念でした。そこで宣教師は「神はあなたを愛していらっしゃいます」という訳ではなく
「神はあなたのことを大切に思っていますか」
という訳を使っていました。
大切に思うこと、それが愛なのです。
なんてことだ!こんなところで私の歴史オタクの知識が役立つなんて!!
私は父の話をさえぎりました。
「お父さんがいろいろやってくれたことはわかっているし、とても感謝しています。
ですが私はそれが実感できません。
お父さんは今でも私の事を大切に思ってくれているのでしょうか」
父は間髪入れずに言いました。
「そりゃお前、当たり前だよ」
私はそれを聞いて泣き出しました。
なんてことでしょう。
数年間家に帰らず、メールしかせず、顔も合わせず、
何も言わずに海外で暮らしている娘のことを、
まだ父は大切に思ってくれていたなんて?
私はありがとうありがとうと言いながら泣き続けました。
父親の言ってることはいつだって私にとってむちゃくちゃです。
首尾一貫しておらず気分で私を傷つけます。
ですが、彼は私の事を確かに思っていてくれてたのです。
私は小さい頃のことを思い出しました。
私は父親が大好きで、兄と父が2人で外で遊ぶのを見て、
仲間にはいるために男の子になりたいと思っていたこともあったはずです。
12歳になってから、それから十数年以上父親とはろくに話もしなかった私ですが、
こんな返事をもらえるなんて、
ああ、父親が死ぬ前にこれが聞けてよかった。
これだけで私はこの先生きていけるじゃないか。
大げさに思われるかもしれませんが私はそう思いました。
————-―-―—
さてはて以上が私のコーチング体験記です。
「お父さんに私の事愛してますかと聞けますか」
家庭問題がある方は、プロのコーチが居ない限り、同じことをすると
やけどすると思うのでやらないでください(やる人もいないと思うけど…)
ちなみにこれ、母親編もあるんですが、それは死にました…。
次回?書きたいと思います。
ここまで読んでくださりありがとうございました。
ちなみに最近歯科矯正してるんですが、それに関して父親からのメールが、
「矯正はいい、次は鼻の整形だ。女は顔だ」
ってあったんだけどどう思う?(台無し!)
それでは今日はこの編で失礼します☆
コメント ( 0 )
トラックバックは利用できません。
この記事へのコメントはありません。